上海 外灘(ワイタン)の夜景

イギリス租界、フランス租界の建物をそのまま活かしている銀行が立ち並ぶ夜景

新年明けて、5日から9日まで、生まれて初めて上海に行ってきました。

到着したその日からあちらこちら歩き回って、いろいろ観察してきたのですが、
基本的に逞しいですね、中国の方たちは。

たった一人で、とにかく言葉が通じない中、羽田でレンタルしてきたVPN接続のモバイルWi-Fiも
あっという間に通信容量を消費してしまうので、翻訳アプリどころか、地図アプリもほとんど使わず、
地下鉄で移動し、現地の人しか入らないようなラーメン屋に入り、フードコートに入り、
クタクタになっておりました。非常に心細かったです(苦笑)。
生まれて初めて、旅先でホームシックになりました(笑)。

繰り返しますが、とにかく、中国の方たちは逞しい。
私が買い物をしようとして、つたない英語で話しかけると、ほとんどすべての方が
普通に中国の言葉(普通語? 上海語? その違いも分かりません!)で質問を返してくれますので、
こちらも頑張って I don’t speak chinese. と返事すると、「オオ……」と了解してくれるものの
ほとんどの人は、その後、改めて中国語で質問してきます。

日本で海外の人に I don’t speak Japanese. と言われたら、
こちらの方が「英語できない!」「何語なら通じるのか?」と慌ててしまうところですが、
彼らにそんな迷いはありません。
多少の英語ができる方は、お互いに片言の英語で会話しようとしてくれますが
言葉が思いつかない時には、躊躇なく自国語を使います。

私たち日本人も、それでいいんですよね、きっと。

さらに、そんな風に言葉が通じていないと分かっていても
彼らは、自分の言いたいことを伝えようとして、時として売りたい商品などを薦めてきます。

私も、彼らのタフさを見習いたいなぁ……というのが素直な感想です。

しかし、疲れましたw
初日に、違法な客引きに立て続けに2人遭遇しましたし、
2日目の夜には、同情を誘って、小銭をたかる女性にも遭遇しました。
後で友人に聞いたら、よくある手口だそうです。

まぁ、被害はなかったので、良い土産話です。

田子坊の横にある市場

外灘の美しい沿岸から、少し奥に入ったあたりの風景

こうして上海を自分の目で見て、足で歩き、ごく普通の生活に、ほんの少し触れてきて改めて思うことがありました。

日本は、中学校で結構きっちり英語も習うし、全体的に教養も高い。
経済大国だと言われているし、生活レベルも割と安定している。
綺麗な建物と、安全なお店、質の高い商品に囲まれて、安心して暮らせている……。

なのに、何でこんなに「閉塞感」が叫ばれる状況にあるんだろうか……と。

そこで思い出したのが、欅坂46の『不協和音』。

アイドル事情にまったく疎い私は、大晦日の『紅白歌合戦』で初めて、欅坂46の『不協和音』という曲を聴きました。

といっても、当日はあまり良く歌を聴いておらず、
突然、「僕は嫌だ!」というセリフだけが耳に飛び込んできたので
「どういう歌なんだろう?」と、びっくりしただけだったのですが……。

その後、総合司会のウッチャンナンチャン・内村と共に踊った後で
メンバーが過呼吸で倒れたことが話題となったこともあって少々気になり、
YouTubeなどで聴き直し、ファンのコメントに目を通し、歌詞を確認してみたわけです。

そして、感じたのが「そうか『僕は嫌だ!』っていうのは、
日本的同調圧力に抵抗して自己主張を叫んだ声なんだな」、ということ。
そして、この曲に共感しているファンの人たちにとって、普段の生活において
“仲間外れにならないように、周囲に意見を合わせる” ことが、
当たり前のようになっているのだろうな、ということでした。

まぁしかし、これは私の勝手な感想なので、当たっているかどうかは分かりません。

それでも、あんまりハズれていないような気もするのですが、どうでしょう。

どうも日本では、初等教育のクセからか、「何事にも、正解がある」と考えがちな傾向があり、
それが同調圧力を高めていると思われるフシがあります。

自分の意見を述べることは、「不協和音」ではない
そもそも、複数の意見がハーモニーを奏でるのが民主主義

でも、ですよ。
そもそも、一人ひとりの考えが違っているのは当たり前。
性格も違えば、環境も違うのだから、自分の生活を守るためにも
まずは、自分の意見を相手に伝えることがコミュニケーションの基本。

自分の意見を述べることは、不協和音でも何でもないんです。

それなのに、「不協和音」と表現されることが “ごく普通” に若者の心にしみる社会は、不健全です。

日本には、昔から「甘えの構造」(by 土居健郎、1971年出版)があって、
「滅私奉公」を押し付けるのが好きで、
互いに「同じ苦労」として問題にフタをしがちな、「村社会」的な側面があります。

それを支える主成分は「コミュニケーション」ではなくて
「沈黙」と「自重」と「忍耐」です。

格好良い響きのある「武士道」だって、非常に理不尽な側面を多く抱えていました。

その理不尽さは、名匠・小林正樹監督の傑作『切腹』(1962年:松竹映画。英題『HARAKIRI』)にも鮮やかに描かれています。

  

……少し話が逸れましたが、
個々人に対して「私(わたくし)」がなく、
「俺もお前もみな同じ。答えは、〇〇が知っている」という社会では、
個人の主張は歓迎されないので、発言も少な目。

だから、他人の主張に真剣に耳を傾けることも少なくなる。

多くの事柄は、「ディスカッションの末」にできたルールではなく、
慣習・風習に沿って、“なんとなく” 続けることが多くなる。

そんな慣習・風習の根拠を、みんな特に考えたことがないから変わらないし、
時折、腕力を匂わせて、声高に主張する人がいると、
その主義主張に引っ張られて、ズルズルと社会の在り方を絡めとられてしまいがちになる。

そんな社会で、伸び伸びと元気よく暮らせるはずはないな、と……。

で、今の日本は、果たしてそんな社会なのでしょうか……?

自分の主張や意見を、相手に伝えることと、
相手の主張や意見に、耳を傾け、意見の相違を探ることは表裏一体。不可分な行為です。
その核にあるのは、「自分の頭で考える」ということ。

今の日本がどうのこうのといった、大きな話は私の手には余るので、
それはいったん脇に置くとして、やっぱり自分にできることがあるとすれば
まずは「聞く力・つかむ力・伝える力」セミナーをできる限り突き詰めて行くなんだろうな、と。

そんな自問自答を繰り返した2018年初頭でした。

まずは、1月18日のセミナーに向けて、気を引き締めてまいりたいと思います。

皆様、何卒よろしくお願い申し上げます!