『日本型組織の病を考える』書影

先日、TBSラジオの『久米宏のラジオなんですけど』にゲスト出演
されていた、元・厚生労働省事務次官の村木厚子氏の著作、
『日本型組織の病を考える』(角川新書)を読んでいるのですが、
いやー、怖いです。

何が怖いかといえば、何はともあれ、2009年の春から始まった
「郵便不正事件」の、冤罪の構造が怖すぎます。

「郵便不正事件」は、検察が証拠を改ざんしてまでして、
無罪の村木氏を有罪に追い込もうとした、驚きの事件です。

冤罪は晴れ、検察に逮捕者が出ている事件ですので、
事件をご存じない方は、ググってみてください。

そもそも、

  • キャリア官僚はどうせ悪いことをしている
  • 係長が独断で犯行に及ぶわけはない。当時の村木課長が
    部下である係長に書類の偽造を行わせたのに違いない

という、検察側の勝手な思い込みで、聞き取り捜査もロクに
せず、いきなり村木氏を逮捕。

そもそも、春から「犯行を見てきたような」報道が過熱して
いた背景には

  • 検察からマスコミへの情報リーク

という状況もあったようで、誰ひとりとして村木氏に事情聴取も
してこない中、どんどんと勝手な想像による、
具体的な犯行のストーリー
が報道されていたようです。

ろくな捜査もせずに逮捕。
そして、強引に有罪判決に持ち込もうとした……

これが、近代民主主義国家の検察がやることなの?????

…と恐ろしくなります。

で、本を読む限り、証書の「作文」や
逮捕後の自白強要に向けた「拘束」など、検察は、
“ごく当たり前の行為” と認識しているんですよ。

これが本当に怖いです。

こんなことが当たり前のように行われているんだから、
一般人の置換の冤罪なんて、そもそも晴らしようがないよね、と
いうのが本当に恐ろしいです。

何がそんなに恐ろしいか?

もう少し詳しく書きますと、

有罪ありきで、勝手に決めつけたストーリーに沿って人を
逮捕して、「取り調べ」とは名ばかりで、質問はすべて
結論ありきの「尋問」でしかなく、「調書」はすべて
取り調べ側(この場合は検察)のストーリーに合わせた
「作文」に過ぎず、「尋問」に使われる、ほかの人の
「調書」も、すべて勝手に作文された空想物語にすぎないと
いうこと。

これは本当に恐ろしい。

昔、“軍国主義” がまかり通った頃の日本を振り返った
ドキュメンタリーじゃないんですよ。

2009年の日本の話ですよ。

「尋問」と「調書の作文」。

この2点について分かりにくいと思うので、
どういうことなのか、著書より一部引用させていただきます。

 2009年6月14日、午前十時頃からだったと思います。取り調べが始まりました。担当となった検事から聞かれたのは、障害者団体の関係者に会ったか。証明書の発行について、上司から指示を受けたり、部下に指示をしたりとか。出来上がった証明書を団体関係者に手渡したか。主にその三点でした。
 団体関係者に会った記憶はありまえんでした。でも、役所には、大勢、人が来ます。挨拶程度の方もいれば、随行で来る方もいらっしゃいます。証明書がほしいということだけで来られた場合、担当者を紹介しただけなら、会ったとしても覚えていない可能性はあります。これまで訪ねてこられた方を、全部覚えている自信はありません。会ったことを忘れている可能性まで否定できないという意味で、検事に「お会いした記憶はありません」と答えました。
 ただし、たとえ国会議員からの依頼でも、怪しい団体に証明書を出すようなことはしません。もしもそんな依頼があれば、絶対に覚えているはずです。さらに、文書を相手に手渡ししたという構図を検察は描いていましたが、役所の実務として、証明書を直接手渡しすることはありません。郵送するのが普通です。
 そう答えたのに、出来上がった調書には、私が団体関係者に会ったことはない、団体についても知らないと書かれています。人間の記憶は曖昧なものですし、断定すると、かえって誤解を生んだり、誤ってしまったりすることがあります。「私はこんなことは言っていません、これは正確ではありません」と何度言っても、検事は、調書はこういうものだから、と言うだけです。
 おそらく検察は、私がうそをついたと受け取れる調書を作らないと逮捕できなかったのでしょう。(後略)

 『日本型組織の病を考える』村木厚子 著(角川新書) 25~26ページより抜粋引用

↑ここに書かれている「作文」は、序の口です。

読み進むと、もっとひどくなります。

重要なポイントは、

おそらく検察は、私がうそをついたと受け取れる調書を作らないと逮捕できなかったのでしょう。

という、この一文にあります。

つまり、自分たちに都合よくことが運べるように、
作文しているということです。

うっかりすると、「自分の話と大して違いはない」と
思えるような文章でも、後で一気に追い詰められるような
仕掛けを、いくらでも作れるということです。

上述の調書の場合、後の裁判でで村木氏が
「いや、もしかしたらお会いしたことがあるかもしれないが、
数年前のことなので覚えていない」と口にした場合などに、

「しかし、あなたは取り調べを行った検事に対し、
『会ったことはない』『知らない』と断言しています。
これは、ウソだったのですか?
なぜ、ウソの供述を行ったのですか!?」と
攻められることになります。

本当に怖いです。

繰り返しますが、しかしこの本に書かれた「怖いこと」の
うち、これはまだ序の口です。

興味をお持ちの方は、ぜひ、手に取ってご一読ください。

そのほか、「現在の日本」に対する示唆に富んだ考察が
いろいろと書かれています。

そして、その多くには、私が、「聞く力」を重視して
セミナー/ワークショップを開始した初心を
思い出させてくれるものがありました。

いろいろ、思うこともあるので、
これから、

【日本人の「質問」への誤解を解く】という観点で
いくつかエントリーを行っていこうと思っています。

お時間ございましたら、ご高覧ください。

今日も新しい気づきに感謝です。