あなたには「安心」と「幸福」の蓄えがありますか?
唐突ですが、私、『ハリー・ポッター』が大好き
なんです。原作も、映画も、両方好きです。
映画が公開される前から原作を読んでいました。
不幸な子ども時代を過ごしたハリーに共感しちゃう
んですよね。
赤ん坊の頃に叔母一家に引き取られてから、
親の温もりも知らずに育ったハリーの子ども時代は、
「自分の価値」を否定し続けられた辛い年月でした。
そのハリーの傷ついた心を改めて浮き彫りにしたのが
3作目の『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』に
登場するディメンター(吸魂鬼)の存在でした。
映画版ではあまり細かく描かれませんでしたが、
ディメンターは、人の心にある「幸福感」や
「ポジティブな感情」を吸い取って弱らせ、
“ディメンターのキス” で魂を奪ってしまう
忌まわしき生き物です。
ハリーは、このディメンターに特に弱いんです。
ほかの子どもたちは徐々に心が弱っていくのに
ハリーは、ディメンターが近づいてくると
すぐに気を失ってしまいます。
なぜなら、ハリーには、幸福な思い出が少ないから。
ディメンターに立ち向かえるだけの「幸福感」の
蓄えがないんです。
幸せだった思い出が極端に少ないんです。
あっという間に、「幸福感」を吸い尽くされて
しまいます。彼は、魔法学校に入学するまで
不幸しか知りませんでしたからね、
このシーンを原作で読んだ時、とても心に響いた、
その感慨は、今も消えていません。
このハリーの弱みが、良く分かるんです。
普通に生活していても、自分の「幸福感」や
「ポジティブな感情」を削り取られる場面って
結構ありますよね?
私も弱いんです、そういう状況に。
些細な言葉で、心がえぐられてしまうんです。
わずかな素振りで、自分から心が離れたと感
じてしまうんです。
ほんの少しの目の表情から、侮られたと感じ
てしまうんです。
知らない人が大勢いると、自分がどこに居れ
ばいいか分からなくなっちゃうんです。
私は、4歳の頃に親に価値を否定されました。
母親にそのつもりはなかったでしょうが、
短気でデリカシーのない父親は「女の子が
欲しかった」と言って憚らず、私が4歳の
時に生まれた妹が、家の中心になりました。
この頃の記憶は非常に曖昧だったのですが、
私がどうしても自分に自信を持ち切れない理由も
他人に心を開ききれなかった理由も、遡れば、
この頃に「自分の価値を完全否定された」心の
傷によるところが大きかったということを
最近になって理解することができました。
原因が分かると、心は落ち着くものです。
それまで、どこにいても心底安心できなかった
理由が幼少期に受けた理不尽な心の傷であった
と分かって、私はホッとしました。
自分に「価値がない」という想いを刷り込まれ
ると、どんなに親しくなった相手に対しても
「きっと、捨てられる」
「きっと、愛想を尽かされる」
「きっと、裏切られる」
という不安が消えなくなります。
だから、その不安を打ち消すように、「有用な自分」
を演じます。
自分を「強く」「大きく」見せようと振舞います。
だから、大抵の場合、実際に考えていることよりも
強めの発言をしてしまうんです。
気が付けば、心にもない毒を吐く
キャラが育っていました。
そもそも、私、他人の心の動きに敏感ですから、
「あ…」っと不安を感じたら、すぐに、ガードを
上げて自分の心を防御しちゃうんです。
相手に先回りして防御しちゃう。
だから、人から見れば攻撃的に映ったのだと思います。
こうした心の動きは、これまで9回にわたって
書き連ねてきた「聞く力」にとって、非常に
邪魔なものです。
でも、私の振る舞いを、そうした「負」の方向に
導いていた力の源泉が、“理不尽に負わされた心の傷”
だと分かったことで、心に余裕が生まれました。
自分は、「価値のない存在」ではなく、
「価値がないと思いこまされていただけ」なんだと
分かったからです。
コミュニケーションを阻害する「虚栄心」を、いかに振り払うか
「虚栄心」…自分を実際よりも強く、
大きく見せようとする心は、次のように働きます。
- 人の話をさえぎる。
- 人の考えを否定する。
- 人の気持ちを軽んじる。
- 人を下に見ようとする。
- 人の言い間違いを責め続ける。
- 自分の考えを押し付ける。
大切な事は、「自己肯定感」と「自己効力感」
と書きました。
「自己肯定感」に満ちていれば、相手の言葉を受け入れる
余裕を持つことができます。
「自己効力感」を失わなければ、【違う考え】を前にして
“自分の考えを否定された” ような錯覚を覚えることは
ありません。
むしろ、違うアイデアを耳にして、自己実現の新たな方法
を手に入れることが出来たと喜べるでしょう。
私は、20年以上、初めて会う方々にインタビューをして
来ました。
本心は、不安と弱気に満ちていました。
しかし、「仕事のスイッチ」を入れて、
踏ん張ってきました。
支えになっていたのは、文章力に対するプライドで
あったり、仕事への責任感であったりするわけですが、
それだけで続けられる年月や回数、プレッシャーでは
ありません。
毎回かなりの精神力を消耗しながらも、今日まで続け
て来ることができた本当の理由は、
人から聞く話が、本当に面白かったからです。
人から聞く話が、貴重な学びばかりだったからです。
互いをリスペクトできれば、対話は実り多くなる
20年以上に渡るキャリアの中で、日本中の本当に多様な
職業、職責の方々から、貴重な学びをいただきました。
中には、原子力発電に関わる方もいました。
自民党の代議士もいました。
テレビ局の方もいました。
いろんな方がいました。
前回のエントリーで書いた、下記の文章は、
嘘偽りない私の本音です。
だから、自分にも相手にも「尊厳」が大事なんです。
相手を敬いましょう。敬意を払いましょう。
そして、自分のことも大切にしましょう。
お互い大切な存在同士、違う考えや気持ちを交感するから
コミュニケーションの実りを大きくできるんです。
たとえば、病院の院長先生や、素晴らしい研究をされている
大学の教授などを相手に、私なんかが語るべき内容は、
ほとんどありません。
そんな方々を相手にしたインタビューで、貴重な学びを
得られてきたのは、「聞く力」を伸ばしてきたからです。
「聞く」と「話す」は表裏一体だと、以前書きました。
相手へのリスペクトがなければ、
正しく「聞く」ことができません。
相手へのリスペクトがなければ、
正しく「話す」こともできません。
同じように、
自分を大切にできていなければ、人の話を
正しく「聞く」ことができません。
自分を大切にできていなければ、自分の考えを
正しく「話す」ことができません。
結局、私が行きついた答えは、
いかにして尊厳を育むか、ということでした。
次回は、その点について書いてみたいと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
また次回、お付き合いいただけますと幸いです。
今日も新しい気づきに感謝です。